馬車の中は思いのほか快適で、物思いに耽る時間もたっぷりあった。
私は色々なことを思った。残してきた姉のこと、心優しい親友のこと。
そしてこれからのことを考えた。私は、領主の顔さえ知らないのだった。
領主の住まう城は村から遠く、馬車で2日もかかる距離だ。
城へ行くのはこれが二度目。一度目は、まだ私が子供の頃。
目を閉じれば、あの時のことが脳裏によみがえる。
湖のほとりに建つ、白磁の石で造られた美しい城。
お伽噺に出てくるお城みたいだと、幼い私は思った。
大人になって、そこに嫁ぐことになるとは、なんて奇妙な縁だろう。
しかし私の心は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
不安はある。たったひとりで、心細いとも思っている。
それは或いは、諦めという感情に似ているかもしれない。
どうしたって、逃げることはできない。
ならば、全てを受け入れて、流される方が楽だ。
やがて扉が開かれて、立ち並ぶ従者達が恭しく頭を下げる。
正面に誰かが立っている。あれが、私の夫となる人か――
「……あなたは」
震える唇から零れ落ちる声音もまた、酷く震えていたと思う。
眩しい金色の髪、深みのある青い瞳の、彼は、領主ではない。
幼少期を共に過ごした友人、或いは、私の、淡い初恋の相手。
レナード・ミューストン。
十年前のある日、唐突に姿を消したはずの彼が、そこにいる。
「ようこそ、我が主の城へ。あなたを歓迎します、シルファ様」
再会を喜ぶ挨拶ではなかった。けれど声は確かに彼のものだ。
困惑する私の手を取って、彼はにこやかに私を城へと迎える。
人気のない城に二人分の足跡だけが、やたら大きく反響する。
やがて彼は立ち止って、振り返ると、親しげに言うのだった。
「十年振りだね、シルファ。きみに会えて嬉しい」
「あなた、やっぱりレナード・ミューストンね?」
「勿論。まさか僕の顔、忘れたわけじゃないよね」
からりと笑う、その微笑みは十年間ずっと私の記憶にあった。
彼は間違いなくレナードで、私の初恋の人であるに違いない。
そうなると、彼がここにいる理由が、余計にわからなかった。
「話したいことが沢山ある。でも、それは後だ」
でも私は、彼のように再会を喜ぶ気には、到底なれなかった。
確かに彼には会いたかった。ずっと恋焦がれていた初恋の人。
でも、こんな日に、こんな場所で、会うつもりなどなかった。
磨き抜かれた大理石の壁は鏡のように、私の姿を映し出した。
顔も知らぬ婚約者のために綺麗に着飾った少女がそこにいる。
「領主様が待ってる。美しいきみを見て、きっと喜ぶよ」
彼は昔と変わらぬ穏やかな笑みをして私に現実を突き付けた。
もしも彼が領主で、私の夫となるのであれば、良かったのに。
そんなことを考える自分が、酷く愚かしく感じられた。
彼は、私の腕を強い力で掴んだまま離さなかった。
まるで手枷でも嵌められているような気分だった。
「シルファ。きみは、領主の妻になるんだ」
私の瞳を覗き込み、そう言う彼の声は、昔と変わらず優しかった。