天使、と彼は言った。
昔、一度だけ、私はこの城の近くまで来たことがある。
その時に、領主城の東の塔に、美しい天使を見たのだ。
天使などという存在は、物語の中でしか聞いたことが無い。
だから俄かには信じられなかったけれど、私は確かに見た。
淡い金髪に青い瞳、彫像のように精緻な美貌の天使だった。
「城の書庫に、天使にまつわる伝承を書き記した本があった」
彼はどこか機嫌がよく、心成しか身を乗り出し気味だった。
続けて彼は言う。その本の著者も天使を見ることができた。
著者とは女性で、若くして当時の領主の、妻となっていた。
調べてみれば大昔から、ごく稀に、天使は目撃されている。
あれはこの領主城に住み着く、精霊のようなものだという。
天使の祝福を受けた者は、幸せな生涯を送るのだと言った。
どれほどの信憑性が分からないが、彼の言葉には熱がある。
「天使に愛されるきみこそ、この城の花嫁に相応しいんだ!」
ひときわ大きな声で、彼はそんなことを言い切って、笑う。
「待ってちょうだい。レナード、私には意味が分からないわ」
天使が見えることと、領主が私に求婚したことと。
そこに一体、どんな関係があるというのだろうか。
「領主様は、私に天使が見えることを知っているの?」
「いや。そんなこと、わざわざ話す必要はないだろう」
「じゃあ領主様が私を妻にと選んだのは、どうして?」
貴族が平民を伴侶に選ぶなどということは、ほとんど無い。
多くの貴族は、自分の家に平民の血が混ざることを嫌った。
好きあうことはできても、愛し合うことは許されないのだ。
彼は、まるで彼らしくない笑顔を作って、そして言った。
「一目惚れさ。以前村に行った時、一目で君に惚れたんだ」
それはまだ領主がレナードと知り合う前のことだという。
彼が城へ来たことで、領主は彼と私が友人であると知る。
「領主とはいえ、十六歳に満たない子供は娶れないからね」
そして私が成人になってすぐ、彼はこの縁談を持ち込んだ。
「……あなたは、私が領主様と結婚することに賛成なの?」
そうじゃないと答えて欲しくて、思わず私はそう尋ねた。
あの日と変わらない、今でも好きだと、言って欲しくて。
けれど彼は優雅な微笑もそのままに言い放つ。
「この城の花嫁になるに相応しいのはシルファ、君だけだ」
「…………」
あなたは、もう私のことは好きではないの?
私が他の男性と結婚することに、何も思わないの?
ねぇもし、あなたが領主様と私を繋がなければ。
私はこんな結婚をしなくて済んだかもしれないのに。
いつか村に帰ってきたあなたと、結ばれたかもしれないのに。
様々な言葉を呑み込んで、私は立ち上がる。
話はこれで終わり。もうなにも、聞きたくなかった。