残酷な現実がひとつ
それからしばらく。
彼女の体の痣が若干薄くなった頃。
その日は天気が悪く、午後で授業が終わった。
僕は傘を開く暇さえ惜しんであの人の職場へ走った。
部屋の中はいつも煙っぽくて、嫌な臭いがする。
今までの僕なら、頼まれたって近付きやしなかった。
あの人の職場はそれなりに広く、作りも豪華。
彼女の部屋にはシャワーとトイレも完備されている。
他に家具と呼べるものは、ベッドがひとつあるくらい。
ウサギのぬいぐるみを抱いて、彼女はいつもそこにいた。
「どうしたの。びしょびしょだよ」
彼女はただでさえ大きい目を、もっと大きくして言った。
僕は旋毛から爪先まで、見事なくらいに濡れそぼっていた。
「ちゃんと拭かないとだめだよ」
部屋の隅に無造作に積まれている衣類の山。
彼女はその中からタオルを取り出して僕に渡す。
彼女が自分の足で歩くのを見たのはこれが初だった。
「ありがとう」
お礼を言いながら僕は思った。
この部屋には洋服箪笥とか引き出しが無いのか。
「どうして濡れてるの」
「邪魔だから、傘は置いてきた」
「じゃあどうして今日はこんなに早く?」
「台風だから学校が休みになったんだよ」
答えてからふと疑問が湧く。何故そんなことを尋ねるの。
この時間に居るならつまり、彼女の学校も休みなんだろう。
だって彼女は学校を休むほど具合が悪いようには見えない。
なにかがおかしい気がした。
そういえば僕は学校で、彼女の学年で、彼女を探したのだ。
ここに住んでいるのなら通う小学校は僕と同じであるはず。
でも彼女はいなくて。生徒も先生も彼女の名前も知らなくて。
彼女はいつもこの部屋に居る。
僕はそれを当たり前のように思っていた。
けれど、それはおかしいことではないのか。
「小夜ちゃんは学校は行かないの?」
僕が問えば彼女は答える。
酷く悲しそうな声と瞳を以て。
「ここに来てからは行ってないの。行かなくて良いんだって」
行かなくても良いだなんて。
そんなはずないじゃないか。
どうして。どうして。どうして?
当然の疑問が今更に、後から後から湧いてくる。
そもそも、考えてみれば、全てがおかしいのだ。
どうして彼女はここにいるのか。
どうして閉じ込められているのか。
どうして学校にも行けていないのか。
彼女が酷い扱いを受ける理由なんて無いはずだ。
ひとつの不自然に気付くと、全てが不自然に思えた。
けれどそれを彼女に尋ねることはとても残酷な気がして。
僕は笑顔を取り繕い、適当に話題を変えた。
これ以上を彼女に喋らせまいと、一人で話し続けた。
けれど彼女の表情が晴れることはなく、まだ僕は僕自身を呪うのだ。