お姫様は囚われて


 一応、僕には、帰るべき家というものがあった。
 しかし家族と呼べるものは、物心付いた時には、既に無かった。

 恐るべきことに、僕は小学生の頃から一人暮らしのようなものだった。
 家に出入りする人間はいたものの、誰も僕に触れようとはしなかった。

 掃除も、料理も、洗濯も、小学生の僕はすべて自分でやった。
 理由は面倒を見てくれる大人がいなかったという他に、もうひとつある。
 僕は、なにがなんでも、あの人の世話にはなりたくなかったのだ。
 勿論、そんなことは到底無理ではあったのだけれど。

 自分の置かれた環境が異常であるという自覚は持っている。
 それを周囲に悟られれば面倒臭いことになることも分かっていた。

 問題を起こしてはならない。目立ってはならない。
 友達もいらない。とにかく他人というものが目障りだった。

 しかし彼女だけは、僕にとって特別な存在だったのだ。

 夏が終わり、秋も過ぎ去ろうという頃のこと。
 彼女との時間は静かに、閉鎖的に流れていた。

 ある日、緩やかな静寂を打ち消して彼女が呟いた。

「明後日、私の誕生日なの」

 そういえば最近、やたらと彼女は日付を気にしていた。
 この部屋には新聞もテレビも、カレンダーすらもない。
 彼女は僕に尋ねる以外に日付を知る術を持たないのだ。

「じゃあ何かお祝いしたいね」
「ううん、そんなのいらない」

 そう言って首を振ると、長い黒髪が揺れる。

「知っておいてほしいだけ、だから」

 遠慮がちに、今にも消え入りそうに小さく、彼女は笑った。

 ケーキを買って、プレゼントを用意して、歌を歌う。
 そんな当たり前のことすら、ここでは出来ない。

 彼女もそれを分かっているんだろう。
 それ以上を言おうとしない姿が痛々しかった。
 けれど実際、どんな祝い方をしてやれるだろう。

 僕自身、誕生日を祝ってもらった記憶がない。
 しかしきっと、彼女にはあるに違いなかった。

 悩んだ末、プレゼントを用意することにした。
 選んだのは、ピンク色の石が飾られた可愛い指輪。

 プレゼントならラッピングしましょうか、と店員に言われて。
 お願いします、と言うのがとても恥ずかしかった記憶がある。

 もちろん玩具の指輪だけれど、彼女は喜んでくれたと思う。
 左手の薬指にそれをはめて、ありがとう、と笑顔をくれた。

 でも、それをあの人達に見つかることは避けなければならない。
 彼女にお菓子を与えてしまった、あの時の悪夢がよみがえってくる。
 だが、僕がそのことを言う前に、彼女はみずから指輪を外した。

「ここに隠しておくね」

 彼女はウサギのぬいぐるみの、背中の縫い目を少し開いた。
 数センチほど糸が解れて、ほんの少し白い綿が覗いている。
 小さな指輪はその中に押し込まれて、姿を隠した。

「そのウサギ、可愛いよね」
「ずっと昔からのお友達なの」

 器用な指先が、目立たないよう縫い目を奇麗に整える。
 そうして彼女は、ウサギを僕に差し出してきた。

 持っていいものか迷ったけれど、僕はそれを受け取る。
 彼女の腕から離れたウサギは、途端にくたりと首を擡げる。
 黒いボタンで出来た二つの瞳は、一点の光も宿していない。

「……お母さんが、作ってくれたの」

 小さな声で彼女が言った。

「会いたいなぁ」

 僕に向けられた言葉ではなく、それは、ただの独り言に近かった。
 なのに、どうしてか、僕の胸は切り付けられたかのように痛んだ。
 そうだね、と言いたかったのに、その言葉はいつまでも出てこなかった。

ここに王子様はいない