きみは何も知らない
料理が出来ないことは、間違いなく僕の欠点だった。
やはり育ってきた環境が大いに影響しているのだと思う。
僕が食べてきた料理と言えば、学校の給食くらいのものだ。
とにかく栄養として吸収されるものなら、なんでも食べてきた。
その所為なのか僕の食に対してのこだわりは、恐ろしく低かった。
なにより僕の味覚は酷く大雑把でいい加減で、当てにならない。
どの食材も舌触りや歯応えが違うだけで、味はゴムと似たようなものだ。
僕はゴムを噛んで生きていけばいいが、しかし彼女はそうではない。
彼女にはきちんとした食事を与えなければいけないと、僕はそう思う。
しかし僕の料理の腕は一向に上達しなかった。
そして彼女は僕とは真逆に、好き嫌いがとても多い。
「小夜ちゃん、用意ができたよ。おいで」
彼女は『おいで』と呼び掛けられることが好きらしい。
どんな時でも、僕が『おいで』と言えば、こちらへやってくる。
テーブルの上には焼き上がったばかりのパンが数枚。
大きなビンに詰まった赤いジャムは彼女が好きなイチゴ味。
僕が作ることが出来て、彼女が好きな料理。ジャムトースト。
「んー、甘い」
彼女はなによりも甘いものが好きだ。
塗るジャムの量も凄まじいものがある。
トーストをそのまま齧る僕を、彼女は不思議そうに見つめてきた。
「ゆうくんは食べないの？」
「僕はいいよ。小夜ちゃんが食べな」
どうせジャムを塗ったところで、僕の舌は甘さなどろくに感じない。
それに食べると口の中がべたべたして、たまらなく不愉快になるのだ。
しかしそんなことは、彼女の知るところではない。
「はい、あーん」
一体どこでそんな仕草を覚えてきたのだろうか。
無邪気に差し出される指には、掬い取ったジャムが乗っている。
或いは僕が彼女の母親であれば、お行儀が悪い、とでも叱るのかもしれない。
僕がほんの少し身を乗り出せば、甘ったるい指が口腔に届く。
舌を使ってジャムを舐め取ると、くすぐったそうに彼女は笑う。
「甘い？」
「うん、甘いよ」
甘いわけがない。およそ全ての食べ物は、僕にとって無味だ。
「じゃあ美味しい？」
「美味しいよ。小夜ちゃんがくれたものだからね」
なにがそんなに嬉しいのだろう。楽しいのだろう。彼女は笑った。
それは昔の僕があんなにも見たかった、微笑みであるのだけれど。
「もっと食べていいよ」
「僕が食べたら、小夜ちゃんの分が無くなるよ？」
「えー、それはだめ。はんぶんこしようね」
彼女の行動や言動は、彼女の本来の年齢と照らし合わせると、酷く低い。
そうすることで彼女は、自分を襲う恐怖や苦痛といったものから逃げてきた。
初めて彼女に会ったあの日から、月日は流れて、僕はもう、非力な子供ではない。
彼女をあの場所から、あの部屋から、あの人から、遠ざけることは出来た。
完全に逃れられたわけではない。僕達は未だ、あの人の監視下に置かれている。
けれど、こんなにも穏やかな時間は、あの場所では絶対に得られなかったものだ。
「ゆうくん、甘いものは好き？」
「あぁ、好きだよ」
甘いもの。例えば、彼女の微笑みや、無邪気な問いかけ。
「どれくらい好き？」
「小夜ちゃんと同じくらいかな」
その意味が分からずに彼女は首を傾げて、僕を見つめる。
口の中に残っているべたつきを全て呑み込んで、僕は答える。
「大好きってことだよ」